小樽旅行16 日本郵船小樽市店

2階に上がります。
最初の部屋は
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完全復元となった2階貴賓室は寄木造りの床、空色漆喰の天井、菊紋内摺セードシャンデリア、菊模様の金唐革紙(※)の壁、絨鍛、鏡付大理石暖炉等で彩られ、家具調度類の配置、また色彩的にも往時の雰囲気がよく伝わってくる贅を尽した華麗な空間です。小樽市ホームページより


壁紙は菊模様の金唐革紙(きんからかわかみ)

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金唐革紙とは江戸時代にオランダ貿易で欧州から輸入した革製品をヒントに和紙で製造した革に似せた紙。はじめはタバコ入れとか小物を作っていましたが、明治初期から大蔵省印刷局で壁紙を作り、欧米へ輸出するようになりました。



となりの大会議室
広さを強調する吊り天井の大胆な弧を描く装飾彫刻と中心飾り



壁紙はアカンサス模様の金唐革紙
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金唐革紙はシャンデリアの光を反射して輝いたという。

旦那は職業柄、壁紙に興味津々
柄合わせがすごいと感心しておりました。

資料室の展示
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階段の手すりも細かい細工が

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こちらの建物といい、あちこちに残る数々の立派な銀行といい、この極寒の地がどうやってこれだけの財を成したのか
ちらりと解説を聞いたところでは
小樽と堺を荷物を積み込んだ船が行き来するだけで船主は今のお金で1億かせいだとか・・・
何を運んだのかは聞きそこねました。
鰊御殿があるくらいだから魚?それとも石炭?

疑問に思っていたらにこにこくんがブラたもりという番組を教えてくれました。そこからの抜粋です。
小樽が大きく発展したのは明治13年、石炭を運ぶための鉄道が小樽、札幌間で開通し、それによって次々と物資が集まり、埋立地が作られ、続々と倉庫が経ちました。
日露戦争の勝利で南樺太との流通が拡大し扱う物資の量が増加します。
小樽港はたくさんの船で賑わいついに全国4位の貿易港に上り詰めました。そそて街には全国からたくさんの人が押し寄せてきました。
明治初期には3000人だった人口はその後40年でおよそ30倍の9万に膨れ上がりました。

こうして戦前の小樽は北海道各地で採掘された石炭の最大の積出し港として、ニシン漁の最大の拠点として、また国際貿易港として、かなりの経済力を有しており、一大金融都市として発展したようです。