浜松櫛1 浜松に残る手作りの櫛

全工程手作りのつげ櫛職人さんは現在廣島さんただひとりと思っていましたが、浜松にもいらっしゃいました。
浜松櫛4代目松山順一さんです。
今回は3代目の松山鐵男を紹介します。

以下日本の匠 白洲正子著より抜粋

黄楊の櫛は私たちの祖先が数千年前から親しんできた装身具であった。
同じ黄楊でも機械で大量生産したものと手作りでは雲泥の差がある。本物の黄楊の櫛が手に入らぬかそう思った矢先彼女は浜松に松山鐵男さんという櫛作りの名人がいることを知った。
会ってみると松山さんにはどこか江戸っ子のような歯切れの良さが有り、話しぶりも洒脱なのでどこの生まれかと聞いてみると「実はおじいさんが彰義隊の生き残りで、浜松に逃げてきて、喰えないから櫛を作った。」とのこと
繊細な道具を作る職人が骨っぽくて気難しいと言われるのも誇り高い旗本の血が流れているせいだろう。
「近頃は黄楊の櫛など使う人はなくなったから、もっぱら古いものを復元して楽しんでいます。」
日本髪をゆわなくなった今日では少数の物好きが普通に使う櫛を注文する程度であたら名工が暇を持て余したいる。

ここで気になってこの本の出版年を見てみました。
昭和56年 そろそろ景気の上昇気流の始まりといったところでしょうか
なのに黄楊櫛の需要はなかったのか
どおりで今櫛職人さんのほとんどが高齢で後継者もいずに廃業してしまうところが多いが、儲けの出ない時代に長い修行をつもうという人がなかったのだろう。

復元櫛
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このあと彼女は櫛を作っているところを見せてもらっている。

適当な厚さにとった材を手にすると半月の形に鉛筆の線を描いただけであとは目分量で細かな歯を引いていく。線など入れるとかえって目障りになるので歯の数なんか数えたことはないと言われる。手が決まるとは恐ろしいものだ。歯ができると、サメの皮で「あらずり」し、木賊で磨くのを「はずり」と呼ぶ。更に「根ずり」と称して好きの小さいので根元をきれいに揃える。そこで初めて半月板の淵を切る。淵のことを「かぶき」と呼ぶ木賊で磨くとたくさん粉が出るがそれが全然でなくなるまで磨きをかけ上部の「むね」を丁寧に仕上げる。さらに椋の木の葉ですべりをよくし、かやの根っこで「うづくり」をする。最後に鹿の角で「ツヤ出し」を行う。

仕事をしている動画が残っています。
許可を得たのでここに載せさせてもらいます。





手間隙かけても人さまに喜んでもらえれば・・・そういう仕事って素晴らしいです。
私が子供の頃は商店街に行けばさまざまな職人さんが手を動かして物づくりをしている姿が見れたものですが、安価な外国製にとって変わられたのは残念です。

筆者はこのあと黄楊の材について書いている。

櫛に用いるものを「本黄楊」もしくは「浅間黄楊」という(ちなみにいま本つげとシールが貼られているのはほとんどが輸入のシャムツゲです。)
2百年経た材でも直径12、3cmにしか育たず、どこも同じようにきめが細かくて仕事がしやすいのと樹脂があるので毛髪のために良い。現在では鹿児島の指宿のものを使っているが、本黄楊は九州にも大島にも浜松の近くにも自生している。

彼女はこのあと浜松の自生地を尋ねる。黄楊の原生林は素人には到底発見できないような深い山あいの谷間にあった。やがて「天然記念物 黄楊樹林」と書いた石碑にいきあたった。このあたりが古木が生えている一廓で樹齢2,3百年の黄楊の木が白い肌を晒して茂っている。彼女はなめらかな幹に手を触れてこの木を発見した工人の喜びを思った。


さて、浜松櫛に興味を持った私は4代目の息子さんが書いているブログ「マツ@むぎわら戦士のブログ」よりメールでコンタクトを取り、櫛のことを問い合せた。
息子さんは代理であり、そこから4代目にメールを転送しての問い合わせとなり、相談しつつ櫛を決めるのでしばし日数を要することになる。

続く