竹燈夜 幽玄の美

地元の行事でこんなに感動したことは今までなかったかもしれない。観月会 竹燈夜in妹背山というイベントに行ってみた。
実家からは徒歩で行ける距離の海禅院観海閣で行われた。
 
1649年(慶安2年)、徳川家康の三十三回忌の際、養珠院(お万の方)が、妹背山に法華経を書写した経石を納めた石室を造り、その上に小堂を建てたのが創始である。養珠院に賛同した後水尾上皇や庶民など、身分を問わず全国から経石を集めて総数は20万個になったという。
養珠院の没後、1653年(承応2年)に紀州藩徳川頼宣は、小堂を二層の多宝塔に改築し拝殿と唐門を建立した。頼宣公は、母の霊を多宝塔に拝んだ後、観海閣から名草山にある紀三井寺を遥拝したと伝えられている。
紀伊国名所図会』には、「山水絶妙、言語(ごんご)に絶えたり。かかるやごとなき御制地(ごせいち)なるも、下民(かみん)の遊翫(いうぐわん)をゆるされ、四季をりをりの間斷なく、爰(ここ)につどひあつまり、おのがさまざまたのしみ興(きよう)ず」とあり、観海閣は四季を通じて民衆に開放されていた。
その後、養珠寺の末寺になり、紀州徳川家の庇護を受けていたが明治維新江戸幕府が滅亡すると禄を失い荒廃していき、檀家のない海禅院は多宝塔を残すのみとなった。   
 
残念ながら、水上楼閣は昭和36年第二室戸台風で流出、現在はコンクリートで再建されたものである。   ネット検索より編集
 
夕暮れどき、足の遅い両親のことを考え早い目に家を出る。
 
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家を出るのが早すぎたかと思ったけれど、老人の足だとどんどん暗闇が迫って来る。
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県内最古の石橋である三断橋をわたって島に入る
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妹背山周辺を約2,000個の竹灯籠が飾られ、一つ一つにロウソクがともされている。
 
         (この記事には関係ないけど太極拳のグループ教室の一つは
                   ↓のあたりで練習している。いいところでしょ?)
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東側には紀三井寺のある名草山も見える。 
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通路はそう広くはなく、足元も暗く、石がゴロゴロしているので老人にはちょっときつい。
消防団らしき人が結構固まって山側にたむろしてるので一列になって海側を通らなくてはいけなかった。あまり人の動きに気を使っている様子もなく、喋ったり、記念撮影したりしてるので少し後ろに体をずらされてぶつかったら年寄りだとそのまま海に落ちるよ。と思って怖かった。
かたまるなら海側に陣取って欲しい。
準備とか大変でご苦労様とは思うけどふらつきながら歩いてる年寄りもいるのだ。せめて手を引いて歩ける空間を開けて欲しい。
こういうイベントが人気が出たら嬉しいけれどあまり人数がはいれないところなので大丈夫なのかなと思う。通路は一方通行にするなど安全面の工夫も欲しい
 
松明もたかれ、火花が散ると美しい
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石の階段を登っていく人がいるのでついて行った。
天然の岩がライトアップされているのはなんとも神秘的だ。
 
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多宝塔もライトアップされて美しい
昼間と随分印象が違う。
 
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お月様が出ていなかったのが残念
第一回目は紀三井寺の上に美しい月が出たそうだが、この日は11時まで月が出ないそう。
ううん、なぜ月のない日に観月会???
 
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用意された椅子に座り、イベントのピアノ演奏をしばし聴きいる。
画像では小さくてわからないけれど向こうに見える灯は紀三井寺がライトアップされているところ
海辺に映る灯火を見ながらのピアノ演奏は素晴らしく感じた。
できれば和楽器とか二胡などだったらさらにしっとりとした情緒を感じられたろう。
 
帰途、まだピアノ演奏が鳴り響いてる。
振り返って海辺に映る観海閣はさらに美しくなっている。
まだ建造物がなかった万葉の時代から御幸などで利用されていた地だ
当時もきっとこのようなかがり火を炊いて観月の宴など開かれたのだろうな。
 
「玉津島 見れども飽かず いかにして
包み持ち行かむ 見ぬ人のため」
 
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中学生らしい女子が自転車で走りながら
「わぁ~~、ロマンティック」
と叫んでいた。
 
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もう少しゆっくりできればここからマリーナの花火も楽しめたようだ。
今回の催しだけでもしみじみして良かったが、例えば屋台、遊覧船、各種飲食業の協賛
いろいろな業種が連携してこの周辺一帯を散策して楽しめるようなイベントにし、観光産業として成り立てばいいなと願います。
 
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平成26年10月12日には片男波公園で万葉薪能も開かれます。
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