奈良平城京跡

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平城京跡は約1km四方の大きな面積を占めています。
710年から784年の74年間都として栄えました。
その後長岡京に移転し、この都は消え去り、跡地は田んぼとなってしまいました。
が、それが幸いしたのです。
木製の遺物は乾燥した状態だとすぐに腐ってしまいます。
でも水につかっているほうが保存されるのです。
1300年前の井戸にはめられた木管や、排水に使われた溝などが残っているのは奇跡ともいえますね。

ところで・・・都にあったたくさんの建物はどうなったのでしょうか?
なぜ突然消えてしまったのでしょうか?

当時は物資が豊富ではありませんでした。なので建物などは潰して次の都に持っていって再利用したのです。
膨大な手間と時間がかかるような気がしますが一から手で作ることを思えばそのほうが楽だったのでしょうね。

ところで遷都のときに寺社が締め出されたという事は周知の事実ですが
「もし一緒についていっていたら」・・・想像すると面白いですよね。
もしかしたらお寺の建物もやっぱり再利用するために壊されていたのかしら?大仏様も今頃は京都にいっていたのかしら?なんてね。

さて平城京独特のものとしてブロックやレンガのような石(粘土を焼いたもの)を使っていたという事があります。(ボランティアの解説の人に名前を聞いたのですが帰ってきたら忘れてしまいました。やっぱりメモを取らないといけませんね。)
このために非常に作業効率よく排水溝や道路作りの工事が進められただろうといわれています。
が、この技術はここだけで終わり、次に伝えられる事はありませんでした。
人の歩いた歩道の磨耗が激しい事から耐久性にかけたためであろうと推測されるそうです。

排水設備についてはもう一つ特筆すべきことがあります。
平城京は北から南に緩やかな傾斜が着いています。
天皇の住んでいた内裏近くに井戸があるのですがそこから汲んだ水が下に流れていくようになっています。四角いブロックで作られたこととあいまってかなりのスピードで流れた事が予想されるそうです。
下水施設の発展している都市はかなりの文明があったような気がします。
(ここまでの画像が別のカメラで撮り、またそれが上手くパソに取り込めなかったのでないのです。後で取り込めたらまたいれていきますね。)



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現在復原されているものに東院庭園と朱雀門があります。
東院庭園はまだ植えられた植栽が土地に馴染んでいず石ばかりの庭したが何年かたてば昔の風情がしのばれるでしょう。






朱雀門は見た目や工法は昔ながらの建築の部分も残しつつ内部は最新の耐震工法を施しています。イメージ 2
塗装の白い部分は胡粉、赤の部分はこの土地の粘土から取れた顔料を使っています。(これも名前忘れちゃいましたぁ(δ。δ;A)゛アセアセ)

大極殿近くの建物から朱雀門を眺めると大きな朱雀門がはるかかなたに小さく見えます。
今はこの間はほとんどだだっ広い広場です。
ここを称して「なにもない、つまらない。」うちの子供たちは言いました。
でもここは歴史のロマンの塊なんだけどなぁ。
元明天皇、その子供の聖武天皇もこの風景を眺めたのだろうなぁ・・・なんて想像をするのってすごく楽しいのだけれど・・・




歴史上の有名人物の事は記録にも残っていますがここには歴史に残っていないような生活の記録もたくさん見られるのです。イメージ 3
木簡には昔のままの文字もきれいに残っているのです。例えば能登のほうから税として鯖が送られてきたとか・・・そういうことから支配の地域やその当時の食生活がわかりますね。
どの家に誰が住んでいたとか、物にもこれはどこの所属のものなのか几帳面に書かれているものが多く、いきた昔の生活の記録となっています。
藤原不比等に作られたといわれる日本の歴史に比べて実に生き生きとした歴史の証人ではありませんか。
ここの遺物をすべて調べるにはまだ100年くらいはかかるといわれています。
また木簡などの保存技術の点からも掘り出すよりは水の中に使っていたほうがいいのかもしれません。
しかしこれからますます古代史について知る事の出来る可能性が埋まっている事は確かです。

2010年には大極殿も復原されます。そのころにもう一度来れたらいいな。
それまで待てないという方。
今月の28~30日(28日13時~16時  29・30日9時半~16時)
大極殿正殿復原工事現場を見学できます。
4月29日13時~15時には記念講演会もありますのでお近くの方はどうぞ見に行ってくださいね。

あっ、長くなってしまった。これを全部読む気力のある人がいるのだろうか・・・

平城京跡ホームページはこちら
http://www3.ocn.ne.jp/~nsih2001/